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れれれのおじさん

Author:れれれのおじさん
長崎生まれで高校卒業まで長崎育ち。74年に建築設計の世界に入り、ゼネコンの設計部、アトリエ系の設計事務所などを、さらしに差した鉛筆一本で渡り歩いて設計を修行。86年に縁もゆかりも無い福岡で設計事務所を開設。日本の気候風土に合った風通しのいい住宅を基本に、自然素材を使った住宅造りを続けている。

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2007/03/23 (Fri) 18:34
玄関

先日は私のシェイシュン時代のことを書きましたが、佐賀の「ガバイばあちゃん」にちなんで言えば、私の母は「ヤバイかあちゃん」でした。
私の友人も「お前のお袋はきついなぁ」と恐れられながら言われました。「 」内は長崎弁ですよ。

さてさて、建物のアプローチのことを書きました。
ある場所に至る動線は単純な最短距離がいいことは言うまでも無いのですが、こと建築に関しては、もったいぶって曲げたり捻ったりしてみましょう。頭の中は単細胞でもこんなところは複雑怪奇、魑魅魍魎の世界に浸りきって蝋燭を垂らし、ヒヒヒヒ・・・・と笑う必要は無い!
 
何でこんなシチュエーションになるんだ・・・

限られた空間を膨らませることを私ら設計者は一生懸命に考えます。そこで考え出す方法として、先述したようにヒネったり曲げたりしてみるわけです。もちろん神様じゃないので空間そのものを歪められるわけではない(んなこた分っとる)ので、前にも書きましたように人の錯覚を利用します。

 そうやってやっと玄関に到着です。・・・(相変わらずオーバーな・・・)

玄関は引き戸と開き戸がありますね。
どちらにするかは建物の全体のデザイン次第でどちらがいいとは一概に言い切れませんが、防犯性を主に考えれば開き戸のほうが有利です。と言うのは開き戸に使われる鍵のほうが引き戸に使われるそれよりも強度があり、そういう意味では安心だからです。
開き戸は洋風で引き戸は和風だといったステレオタイプの考えは捨てて、ユニバーサルデザインを中心とした考え形で決めましょう。年配の方がおんなさる(注:長崎弁 「いらっしゃる」の意)住まいであれば、将来の車椅子の生活も考慮する必要があります。

玄関の扉一つでも、このように、いろいろな切り口から引き戸にするか開き戸にするかを決める必要があります。あだやおろそかにできませんぞ。

さてさて、ココで問題です。

開き戸には外開きと内開きがありますよね。室内ではそれほど大きな問題にはなりませんが(場所にもよりますが、その辺の説明は後日)、では玄関ドアはそのどちらのほうがいいのかを考えて見ませんか?その理由も合わせて考えてみてください。

その解説は次回に。

なんだか昔の漫画で「巨人の星」や「あしたのジョー」にあったような、もったいぶらせぶりですね。
星飛馬が一球投げるのに2週間もかかったし、ジョーがパンチを相手に当てるのにも同じくらいかかった。

いやいや、気の長い時代でしたわ。

若い人には分からんやろねと、おじさんはつぶやきながら遠くを見つめるような目をして、ひとくち、渋茶を飲むのです。
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2007/03/20 (Tue) 18:02
Long time ago

ちょっと硬い話ばかり書いていましたので息抜きにワタクシメの過去の話に付き合ってください。

採れたのは長崎の新大工町という商店街のど真ん中。
男兄弟3人の中の末っ子でした。こればっかしは私の力でもどうしようもない。

長兄は一番身長高く勉強のできもよかった。きっと母のおっぱいもわさわさ出て、栄養たっぷりだったのかも。続く次兄とワタクシメは、母のおっぱいの栄養分のあらかたを長兄に持っていかれたせいか、身長もそこそこ、ついでに勉強もそこそこという結果でした。ついでに言えば、長兄は九州トップの国立大に入り、空手をやっては全国大会でもいいとこ(あくまでも、イイトコ)ろに入る努力家。思い返せば、勉強していたところしか思い出せないんですね。
そんな兄と比べられて、母からよく言われていました。あんた(私のこと)は橋の下から拾ってきたんだ、とか、失敗作だ、とか。そっか、俺はこの家の子じゃないんだと、当時は真剣に思っていました。だから、勉強できないのも仕方ないんだと。で、落ち込んだかって?そこが私のいいとこ。やなことはすぐ忘れます。いいこともついでに・・・

高校時代は悲惨でした。長兄と同じ高校に運悪く入ったのですが、向こうは成績優秀で京都大学でもOK.と面談のとき担任教師からに言われ、実にいい気持ちでお袋は帰ってきていました。私の時は、母が帰ってくる前に私は家から脱走。なぜかって?長兄と比べれて、教師から何を言われているか当の本人が一番知っていますもの。頭から湯気を出して般若面そのものの母の顔を見るのは、そりゃ怖かった。

それでも何とか人並みに大学に入ることができました。
大学時代は今から考えると、実に豊かな時代でしたね。一生付き合える友人もいっぱいできたのもこのころです。
仲間は組関係者が多い。間組、奥村組、熊谷組など。なかには山口という学生運動で過激な奴がいて、こいつが組を名乗ったら関西方面じゃまずいんじゃないかと心配しましたが。
 当時の仲間はサラリーマンになった奴が多く、そのほとんどが現在は部長の肩書きですが、サラリーマン時代には部長といえばハハァ~ってな感じでしたが、友人が部長つったってフ~ンっといったところで何の重みも感じませんね。なんつったって、あーた、わたしゃ代表ですよ。部下も何もいませんがね。明日をも知れぬ身なれども・・・。

そんなこんなでできの悪い息子も、こうやって立派な中年になりました。あれだけ怖かった母も、おかげで田舎で健在でして、相変わらず口から先に生まれたような勢いでボケもせず衰えを見せません。田舎に帰るたびに言われます。あんたは親孝行だと。なぜかと言うと、心配かけるのでぼけられないと。

ハハハ・・

こんなボケ防止の方法もあったと、医学会に報告しよう。







2007/03/19 (Mon) 19:01
曲げる

建物の配置の話から日本人の話になりましたが、すでに書いたように建築は文化ですので、この国の文化度が如実に現れてきます。
 
 で、配置の話。
 建物をどこに置くかと言うことに神経を使うという話をしましたが、通り(通常は敷地に面している道路)からの見え方の処理の仕方や玄関へのアプローチの処理の仕方で、設計者の建築に対する考え方が現れます。
 玄関への動線は、大体において道路から直線状に作ることは建物への空間的ふくらみを感じられないので、できればいったん目線をはずすというような処理を考えます。道路からの距離が短くてそんな余裕も無い場合は、小さくてもいいので樹木や植え込みなどで、動線や目線の動きに対してワンクッション置くことを考えてみましょう。直線状に動きやすい動線や目線を曲げることは、建物へ至る距離感をより長く感じさせ
、結果的に建物の印象をより効果的に見せることができます。
このように直線で処理する部分を意図的に曖昧な曲線にするという手法は、古来からの日本建築によく見られます。

このところちょいと忙しいので、本日はこれまでにさせてもらいます。スンマソンm(__)m。
時間の余裕ができたらまたどしどし(?)書きます。

忙しくなりたいと願いつつ、忙しくなればなったで、ぜんぜん本が読めんとぼやくことの繰り返し。こんなワタシッテいったい・・・


2007/03/13 (Tue) 11:03
曖昧さ その2

 日本人特有の曖昧さに関しては、作家の大江健三郎も著書のタイトルで「曖昧な日本の中の私」(だったと思いますが・・)と書いています。曖昧と言うことは、物事の実態をあからさまに表さないで、そこはかとなくかもし出して相手にそれとなく伝える。というような意味合いと思いますが、広辞苑なんかを引き合いにするとやたら難しくなるので止めときます。
 
 その昔、国語の授業でよく「行間を読め」とか言われた記憶があります。ギョウマ?っていう感じで当時はさっぱりでした。しかし、この「ギョウマを読む」ということは、日本人の社会で多く見られる現象ですね。たとえば、京言葉で、帰りかけている人に「「まぁ、お茶づけ(ぶぶづけ)でもいっぱいどうどす」なんて言われて本当にお茶づけを食べたらダメで、本当はもうそろそろ引き上げてくださいという意味らしいですが、直接意味する内容と違う意味を汲み取る能力を要求されますので、私みたいな単細胞には京都はとてもよう住めまへんどす。

 ことほどさように日本人はストレートな表現を嫌います。やはり、狭い国土で余計な争いごとを避けようという知恵なんでしょうかね。たしかに、「もうそろそろお引取りください」といわれるより、「お茶漬けでもどうですか」という婉曲的なお引取りを願う表現のほうが当たりが柔らかいですが、やっぱりそれならばということで、お茶漬けをもらいそうですよね。

 建築の話しからそれているようですが、これがちっともそれていないんです。なぜなら、建築はその国のかもし出す文化的な背景によって成り立つものだから。文化とは人が長い歴史に中で、意図的に無意識的に営々と作り上げ続けているものなので、建築はその文化から離れて存在するものではないのですね。それゆえに、建築を見ると、その国の文化の度合いが分かるのではないかと思います。文化と文明とは違うことにも注意してくださいね。文明はGNPなんかでの指数でも計れますが、文化は指数で表示できるものではありません。その点、この国の建築レエベルは、都市景観を含めて嘆かわしい状態じゃないかと思います。都街というか都市の景観の汚いことは外国に比べると一目瞭然です。ということは、この国の文化レベルも言わずもがなですね。

 曖昧さの建築的な表現として、建物を一目で見通せるような進入の仕方を取らないとか、物の間に格子状のものや現在では半透明のスクリーンなどを立てて、それを通して見せるとか(これを「透かす、もしくは透ける」という建築用語になっています。)いう手法が見られます。この「透ける」というデザインは、なかなかに空間が色っぽくなることもありますよ。えっ!いやいや、貴方が考えているようなことじゃないですよ。建築での話です。女性のことなんか言っていませんよ。トンでもないことです・・・・ムフフフ。あ、いかん、目がフニャ目になっちまった。

今回は曖昧さその2でした。
このシリーズ、まだまだ続けるぞーっと。
誰も期待してないって・・・

2007/03/09 (Fri) 16:24
曖昧さ

 住宅を設計する場合、最初に考えることは敷地のどこに配置するかと言うことです。建築は敷地の特性を生かして設計するべきで、さらに言えば、建つ地域の特性をも考慮する必要があるのはあたり前。しかし、某有名建築家は日本全国どこでも同じような設計しかしませんが、それでもありがたがって依頼する人が引きも切らさずで、私と月とすっぽん、提灯に釣鐘、え~っと、他にあったっけ・・。

 敷地の特性を把握するためには、必ず現地調査(現調)が必要です。
道路との関係・隣地との関係・隣家の窓の位置の確認・周囲の状況・方位・地盤の状況などなど、チェックすることは山ほどあります。現調することでイメージが沸いてくることも多々あります。
密集地や分譲地などでは、特に隣家との関係性にもっとも注意を払います。現地の写真撮影は勿論のこと隣家の窓の位置の測定もしておかねばなりません。せっかく気持ちのいい住宅に仕上げたつもりでも、隣家と窓がぶつかり合って開けられない窓ができてしまったら建売住宅やハウスメーカーではないのですから設計者失格です。

 現調のデーターをもとに、敷地の図面に必要な情報を書き込みます。隣家の壁の位置や窓の位置、敷地の高低差、隣の奥さんは美人かどうか・・(これは嘘)。こうした情報を書き込んで、さてさてとおもむろに、配置を検討します。
勿論この時点ではまだ平面は決っていないことが多いので、おおよその目安として建物の位置を決めます。都心部の狭小敷地の場合では配置を検討する必要も無いくらいのケースもありますが、それでも道路からのアプローチの方法や見え方の検討など、検討する項目は結構あるものです。

 建物の配置を決めるときに、いつも日本と西欧のものの作り方の違いを意識してしまいます。日本の場合というより日本人は、総じて物事をあいまいにすることを好みます。言語からしてそのような構成になっていることでも分かります。英語、ドイツ語、フランス語(は知りませんが)、中国語などでは、言葉の最初のほうに肯定か否定かの言葉がくるので話し手の意図が初期の段階で把握できますが、日本語では最後まで聞かないと肯定か否定かが分からないことが多々あります。でもこういう言語構成で便利なのは、迷っているときでは肯定するか否定するかを話しているうちにでも考えられるということはありますが、総じて聞いてるほうは結論に至るまでの長い話の場合、いったいどっちなんだよといらいらすることのほうが多いかもしれません。で、結局うやむやでなんとなく分かったような分からないような、そんな経験、ありません?
 
 言葉だけでなく建物の作り方も同様で、石造の建築が多い欧米では外と内とが厳密にリジッドに遮断され、そこには曖昧さと言うものは存在しません。寒冷地のヨーロッパでは自然界は対峙する対象であって親しむ対象ではなかったということの表れです。日本はというと、温暖なモンスーン気候のせいなのかそのような国に生まれた日本人の気質なのかは分かりませんが、自然と人間は同じであるという考え方がベースにあるゆえに自然と一体になるような建築の作り方が多く、建物の中に自然を取り入れる手法として外でも内でもない中間領域となるような濡れ縁等の縁側と言うものが外部に取り付いて、いきなり屋内になるというようなつくり方はありませんでした。このように、外と内のあいまいな部分を好んで取り入れています。この辺が欧米との大きな違いですね。。

このように日本人は、建物の外にあいまい領域と呼べるような中間領域を作っています。その方法は外部から建物へ接近する際の手法として現在でも広く用いられますね。これは、道路から建物へ導入についても同様です。

次回は、この続きを。
指が疲れたぁ・・・

2007/03/05 (Mon) 14:28
建築と心理学

 建築は人が利用する施設ですので、当然ながらそこには建築空間が人の気持ちにどのように作用するかと言う視点も大切になります。いわゆる建築における心理学と言う観点です。
 
 そこで具体例で説明するとして、まず思い浮かべるのは権力や威厳を表現した建築物。昔ならば王宮や城郭、現代で言えば裁判所や国会などですね。その建築物ですぐにイメージが沸くのは、外部に大きく取り付いている階段です。大きく長い階段。
日本ではあまり見かけないですが、特にアメリカあたりでは権威を表現する施設へのアプローチは、大きく長い階段が外部に設けられています。
日本では、神社仏閣などへの長い参詣のための階段もそうですね。もっとも、この場合は日本と言う狭い国土の条件や神社仏閣と言う宗教建築の色合いであり権力者的な捕らえ方とは違いますが、長い階段の持つ意味においては同じとして。

何のためだと思います?
階段を上るとき、皆さん、どうしてますか?上を見つめて一歩ずつ上る人は少ないと思いますね。足を踏み外さないないように踏み段を見つめているはずです。必然的に頭をやや下に向けていますよね。このような場所に付けられている階段には、下から上へ行く行為のなかに下の者が上の者へ畏れながら接近する意味を持たせており、さらには権力側から見下ろされている、と言う心理効果を与えているのではないでしょうか。このように抑圧感を導入部分から与えます。そこには簡単には来させないという意図も感じられます。
権力者とは古今東西に限らず庶民を見下したがるものです。選挙のときはヘコヘコしてた政治屋が、当選した途端に胸をそっくり返しすのも、己を大きいものに見せたがり人を上から見下ろしたいという心理から出ています。これは人に限らず動物全て当てはまる行為です。動物は威嚇する際に自分の体を大きく見せる、その行為と全く同じですね。
面会場まで長い廊下や階段も、そこに行く人は、権力に押さえつけられてしまう気持ちになります。
これとは逆に、お客さんにどんどん来て欲しい店なんかがこんなふうな階段を付けていたらどうでしょうか。拒絶されているように感じて誰も行きませんよね。だからお店では逆に階段で下がったところに入り口を付けるケースが多いのもこういう理由からです。

身近な例で言えば、役所で何か書類をもらったりするのに、たらいまわしにされることも一つはこうした長い導入路を意図的に作り上げているのかもしれませんね。簡単には書類を出さないぞという、お上意識。これはなかなか抜けないようです。

 その昔、ヒトラーは人への心理効果を巧みに応用して自分への会見場へは壁を赤く塗った長い階段や廊下を通らせ、さらに会見場は天井がかなり高い大広間を使用し、入り口から遠いところに座して待っていたそうです。
想像してみてください。そのような空間では歩いているだけで気持ちが重くなり、やっとたどり着いた部屋は大きく、目線の向こうにその目的の人物が尊大に座してこちらを見ていたら、面談したときにはすっかり卑屈になってしまいそうじゃないですか。こういう面はヒトラーは天才的でした。でも、本当に彼が考え出したのかどうかは不明ですが。

私も女房に対してこれを応用してみたいと思いますが、いかんせん、ドアを開ければ3歩で居間と言うような家では長い廊下を通しての謁見(もちろん私への)の間なんていう造りは無理ですね。心理的な抑圧感を女房に与える前に、もうすっかり私のほうが女房と言う鬼オババ化した強力無比の権力者にひれ伏してしまっている現実を何とか変えたいともがいていますが、い、いつのまに、こうなったんやぁぁぁ~!・・・・と、悲しき叫び(昔、ジ・アニマルズが似たような題のロックを歌っていたと思いますが。)

最後はなんだか支離滅裂でしたが、今日は心理学的な建築考察でした。

2007/03/02 (Fri) 10:52
目の錯覚シリーズ その2

目の錯覚を利用したデザインの一つに、長いものを途中で膨らませたりムクリをつけたりする方法があります。
人の目は長い水平線を見ると、中央部分が下に垂れて見えるようです。これは人間の太古の時代の長い経験から、長いものは垂れるという自然界のでの現象を見続けてきたことにより、脳に刷り込まれた潜在意識から生じるものじゃないかと勝手に思っていますが、まんざら大はずれでもないんじゃないかと思っています。地球の水平線は球体ですので緩やかな曲面を現していますが、これも長く見続けていると曲面が意識の中で消えてしまってまっすぐな直線に見えるときがありますが、こういった現象を利用するデザインです。
最初に書いたような手法は、古い日本建築にも多々見られます。特に規模の大きい寺院建築では、屋根のデザインでこういった手法をとることが多く見られます。室内でも同じような手法が見られます。和室の人の頭の上に取り付いている長押という部材で、部屋の四方に壁に取り付いて回している化粧材ですが、大きい部屋の場合、この長押が直線状に長くなるほど垂れて見えることを避けるために中央でわずかにムクリをつけることで、水平に見えるようにしています。
次に垂直線ではどうでしょうか。建築の世界では垂直になるものは柱や壁がほとんどですが、古来、構造体としてがっちり見えないと不安になるものといえば柱です。この柱も同じように長くなると、大規模な円柱に限って言えば、これもやっぱり真ん中あたりで細くなったように見えます。
現代の建築デザインでは細いほうが望まれますので大きな問題とならないのでしょうが、昔は柱が建築物を持たせる唯一の部材であったので、細く見えることは頼りなく見えるために、特に権力者に関係するような規模の大きい建築では権勢力の面でマイナスと考えたとしても不思議ではないでしょう。権力者とか大金持ちが己の権勢を誇示するために、大きな建築物を建てるとか豪華なものを身に着けるとか高級車に乗るということは、古今東西変わりませんから。そう考えると、文明の進歩に比べて人間の精神構造は大して進歩していないとこが分かりますね。
柱の話。
で、どうしたのかと言うと、真ん中あたりを膨らませたわけです。
この方法は、特に円柱の場合に限定してみれば、エンタシスと呼ばれている方法で、有名なところではパルテノン神殿の柱や東大寺南大門の柱に取り入れらています。エンタシスと呼ばれるのは「頂部が底部より細くなっている円柱において、直径の減少をやわらげてみせるために円柱の率面の輪郭を曲線状にすること。底部の直径よりも中間部分の直径が大きい場合は膨張であって、エンタシスではない。」(建築用語辞典)といった定義がありあますので、何でもかんでもそんなにしている柱はエンタシスだというわけではないのですが、パルテノン神殿のころから、人間は目の錯覚を意識していたわけですね。
しかし、目の錯覚ならば、人間の体型って円柱と言えなくも無いのですが、女性は真ん中が窪んでいればますます窪んで見えるということもあまりないし、真ん中を膨らませたら、やっぱり出っ張りに見えるということは、やっぱり垂直方向の長さが足りないんでしょうね。ということは、人体に関してはこの錯覚は通用しないという結論です。

テーマ : 建築デザイン - ジャンル : 学問・文化・芸術

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